昨年印象に残った10冊のうち、3冊は昨年の具体的なインタビュ ーに関連する本で、感銘を受けたものを挙げた。 それは大阪の日雇い労働者の街、釜ヶ崎に関する本である。以下、本日はその3冊を含め、5冊印象深かった本を紹介したいと思う。
●『釜ヶ崎のススメ』(洛北出版)原口剛、稲田七海、白波瀬達也 、平川隆啓編
現在ある釜ヶ崎(JR大阪市新今宮駅周辺)ドヤ街の前身があった場所の歴史的経緯から、実際に日雇い労働者になってみたフィールドワ ーク、日雇い労働者の働き方について、暴動を含んだ労働運動史、実際のド ヤの居住性、長期失業によるホームレス化、反失業の運動、生活困窮 の人たちの繋がりとなるキリスト教の活動(社会運動としてのキリ スト教、個人の魂救済に力点を置く布教型キリスト教)、労働者か ら福祉の街に変貌する釜ヶ崎について、安宿を求め釜ヶ崎に泊まる外国人観光客の動向な ど。ある種究極の非正規労働である日雇い労働者が集まるまち釜ヶ 崎を軸に、その変容のありかはふつうの先進国となった日本社会 の今後における先験的な動きを伝えるものに思える(『日雇い労働者がリハーサルをし、フリー ターが本番を演じている』)。
内容は柔らかいエッセイやイラスト、たくさんの地図なども掲載さ れ読みやすい作り。編者があとがきで書かれているように、釜ヶ崎の ことを知らない人にとっても分かりやすく、それでいながら研究の クオリティを落とさない本として成立している。釜ヶ崎入門、 また応用的に考えるならば、今後よりいっそう展開されるだろう労働場面、例えばにわかに日本でも入管難民法改正で外国人労働者を受け入れることが決まり、今度は新しく外国人労働者のことが想像の域内に入ってきた。この事態は単純労働者の受け入れ、という点で新たな「寄り場のない流動する下層の労働者」を作らないだろうか、実習生にとっての悪質ブローカーは釜ヶ崎の悪質手配師と等価なものといえないかなど、人々の流動性にまつわる課題などについても思念できる良質な本といえます。
●『無縁声声ー日本資本主義残酷史』(藤原書店)平井正治
1927年(昭和2年)生まれで、1961年に日雇い労働者とし て釜ヶ崎へ定住され、港湾労働組合などで労働運動で活躍し、その 後も釜ヶ崎に関する貴重な資料を収集し、かつ自分も執筆した釜ヶ 崎での労働運動に関するビラ、あるいは釜ヶ崎の労働者が活発な時期の新聞資料など、学術的にも貴重な資料を残 して「釜ヶ崎の生き字引」と呼ばれたかたによる語り起こしを中心にし た本。前半は釜ヶ崎前史について知り得たことの語り(貴重な地理史として読める)、また平井さん個人史に関しては戸籍を持たずに生き、終戦直後の共産党 に入党、松下電気に入社するも労働運動を起こすことでレッドパー ジを受けたりし、かつその共産党からも「反革命分子」としてリンチに遭遇するなど、前半生の身体を張った生き方が生々しく語られ、同時に社会や 人間、釜ヶ崎から見た社会経済構造など観察眼を鋭利に持ち、肉体労働者でありながらのそのインテリジェ ンスには舌を巻く。第一次釜ヶ崎暴動の頃から日雇い港湾労 働者として釜ヶ崎で働くが、その労働に関する観察、また日雇いにおける仲介者(手配師)、飯場親方、行政らの態度に対 する毅然として忌憚のない一貫した姿勢は「ひとりの人間ここにあり」として特筆ものであると言って いいだろう。
後半に平井さんを囲む対談が載っているが、聞き手が言うように「思想家で、釜ヶ崎の住人で、港湾の日雇い労働者というのを超え た、まだ何かがある」「あえていえば、革命家。 政府を転覆する意味ではなくて、世の中で誰も見ていないものを見 ている。そのものの考え方とか、意識とかが非常に革命的だ」 という表現がぴったりとする。この平井さんの船内労働の具体的な内容や、 大阪万博時の状況、暴動をも利用する労働運動の活動などについて仔細に 、情感を持って語られる。この語りから大阪の経済復興、 高度成長、長期不況までがリアルに見えてくる、単なる個人史には到底できない日本の現場労働史でもある。いまの廃刊状態がなんとも惜しまれ る。ぜひ復刊を望みたい。
●『叫びの都市』(洛北出版)原口剛
昨年9月にインタビューさせていただいた原口剛さんの渾身の著。 序章と終章において専門である空間人文地理学の知見を背景に釜ヶ崎労 働運動史、暴動史だけに終わらない釜ヶ崎という場所の「空間と世界」への 一元的思考を複眼的なものへ転換する。その上で第1章から第5章で釜ヶ 崎という場所に寄せ集まり、寄り集まった大量の単身男性労働者のうごめきを 幾人かの活動家の実践を埋め込みながら、主に1970年代までを中心 に釜ヶ崎という空間での語りの依り代となって、日雇い労働者の側に徹底的に立つ。彼らの肉体を利用する手配師や 飯場の親方、また彼らを軽視し時に敵対する警察、矛盾を無視し大阪万 博のために大量に肉体労働者を一箇所に集めた行政。 それらと労働者の生存が抑圧されて沸点に達するとき、労働者たちは対峙し暴動が何度も 勃発した。そして今では労働者は高齢化し、同時に現役の非正規労働者は携帯 で労働センターという労働市場により集まらず、ネットで日雇いに従事する。つまり対 抗の集団が形成されなくなってきた。
また、釜ヶ崎の労働センターも今では改築が迫られ、スラムクリアランス のジェントリフィケーションの対象になろうと画策もされつつある。土地が浄化されてしまうとその土地で起きていたダイナミズムは忘却される。 著者が言うように、「この本は反時代的な本である」。記憶を忘れてはならない、ということを主眼としている。
写真を含め全編に渡る緊張感は、釜ヶ崎といういわばミクロな空間の歴史を主に丹念にたどりながら、先述したように序章と終章でマクロな問題 と今後の流動的労働者の問題意識へ開かれる。
この本において、先述したように今後想像される外国人の単純労働者受け入れによって釜ヶ崎のある意味厳しい歴史が反復されないだろうか。 平井正治さんがいうように、先を見据えた単身者住宅、労働者住宅 を真剣に考えないと矛盾が前衛化するのではないか。そんなことも考えさせられる。
●『現代社会用語集』(新評論)入江公康
「はじめに」に書かれているように、社会を知るためにはまずはあた りまえを疑うこと。そのためには社会の「外部」を感じるためのとっ かかりが必要だという考えのもとに社会学の用語が解説されている 。普通の社会学用語辞典と同様なもの(「家族」など)から「肉」 など、筆者の思念を軸にしている用語もあり、言葉や人物、映画とテーマ分けしているけれども、選択は割と恣意的になっている。ふつうの用語辞典が持っている客観性を標榜するために言葉に宿るエモーションが濾過されてしまうことがなく、著者の思 いが率直に露見しているのが読みどころ。その情念があるゆえに読んで面白く、 面白いがゆえにためになる。また、ひとつの用語に字数を多く割い てはいても簡明さは失われておらず、そのあたりもさすが。
個人的に深くうなづいたのは「新自由主義」の項目。“新自由主義 の世界観を検討すると、そこには歴史も時間の奥行きも空間の複数 性もない。そのつどそのつど、のっぺりとした空間で、目先だけの 行動のみを正当化する考え方が中心にある。目の前にあるものだけ が真実。ほかのことは見ない。ダメなら入れ替えればいいというイ ージーな世界認識だ”
ー同感である。そしてそれは自分自身も捕まってしまっている蜘蛛の巣でも ある。
現代の混沌とした社会をただ混沌としたものとして受け止めるので はなく、構造的に理解する手引きとして有効な本で、この本を手元 に社会系の本を読むのにも役立つかと思う。
●『NO FUTUERーイタリア・アウトノミア運動史』(洛北出版)フラ ンコ・ベラルディ(ビフォ)
1970年代中期に始まり、1977年3月に高揚し、9月に活動 家が弾圧されたイタリア・アウトノミア運動の活動家による当時を 振り返りその運動を解釈した本。 数多くの当時のイラストやコラージュなども掲載され、視覚的に も非常に刺激的。
初版は1987年に、次の版は1997年、また日本版の序文と 3つの考察的な長文の序文が最初に掲載されている。
アウトノミア運動は自由ラジオ、スクォッテング(空き家占拠)、 反労働、家事労働に賃金を、と多産的な運動だった。今からみると どれも無茶なゲリラ行為に見えるが、当時自由ラジオを運営していたフランコ・ベラルディ(以下、ビフォ)によると、それは南部 から来た若者たちの北部自動車工場でのサボタージュであり、 その意味するところは元々の南部人気質によるものや、文化受容の変容が生まれてきていたこと、また労働の現場に関 していえば、工場のオートメーション化、機械化による労働時間減退の必要があったのだという。
また、労働運動活動家の学生や若者たちにとって重要なのは77年が20 世紀最後の共産主義運動と理解できると同時に、最初のポスト工業 化時代の運動のかたちであり、ポスト共産主義運動であったということで あった。しかし当時はまだ階級闘争の革命運動の思想や理念があった。若者たちの要求は「生の質」や、実存を現実化する欲望 、工場労働への奉仕という制約から時間と身体を解放したいという 意思であって、その意識の違い、矛盾は断ち切ることができず、運動を持続しきれなかったのだと。
また、運 動家も当時の過激左派の犯罪にまぜこませて逮捕が相次いだのも大 きかったと。
また、運
ビフォは弾圧を恐れフランスに半ば亡命、精神分析学者で哲学者のガタリに匿 われたり、その後はアメリカに渡ってサイバーパンク、コンピュータの オープンアクセスに活路を見出そうとするなど、鋭敏な感性でさま ざまな方向に向かう。活動の多くは市民同士の自由なコミュニケーション ツールを求めることであったが、それらはほぼ資本主義の営利追求に呑み込 まれたという意味で彼の夢は砕かれ続けてきたといえるだろうが、それだけに 鋭敏に現代の感情労働や認知労働による労働者の能力収奪を鋭く見抜いて問 題視している人物だと読める。
90年代終わりには「無垢」というかたちでの収奪からの離脱 を説く(『無垢は反抗すると同時に反発をやめる。無垢は凋落が避け られないことを自覚しているが、倫理的にそれに巻き込まれる』)。
無垢による離脱を考えたビフォは2008年に日本の読者のために 「世界じゅうのひきこもりたちよ、団結せよ」というわかりやすい 論文も寄稿しており、ひきこもりは無垢のかたちであるとして本書にも掲載されている。カルチャーの側から モノを見ている人のようであるので、表現に誤解を招く点もあるかもし れないが、その鋭敏な感性は刺激的であるがゆえに頭の柔軟体操と してこの本に出会えてよかったと思うし、社会のべつなかたちを想像し、べつなかたちに関心があ る人に薦めたいものだ。
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