2019年1月4日金曜日

昨年の10冊ー1

 昨年印象に残った10冊のうち、3冊は昨年の具体的なインタビューに関連する本で、感銘を受けたものを挙げた。それは大阪の日雇い労働者の街、釜ヶ崎に関する本である。以下、本日はその3冊を含め、5冊印象深かった本を紹介したいと思う。


●『釜ヶ崎のススメ』(洛北出版)原口剛、稲田七海、白波瀬達也、平川隆啓編
 現在ある釜ヶ崎(JR大阪市新今宮駅周辺)ドヤ街の前身があった場所の歴史的経緯から、実際に日雇い労働者になってみたフィールドワーク、日雇い労働者の働き方について、暴動を含んだ労働運動史、実際のドヤの居住性、長期失業によるホームレス化、反失業の運動、生活困窮の人たちの繋がりとなるキリスト教の活動(社会運動としてのキリスト教、個人の魂救済に力点を置く布教型キリスト教)、労働者から福祉の街に変貌する釜ヶ崎について、安宿を求め釜ヶ崎に泊まる外国人観光客の動向など。ある種究極の非正規労働である日雇い労働者が集まるまち釜ヶ崎を軸に、その変容のありかはふつうの先進国となった日本社会の今後における先験的な動きを伝えるものに思える(『日雇い労働者がリハーサルをし、フリーターが本番を演じている』)。

 内容は柔らかいエッセイやイラスト、たくさんの地図なども掲載され読みやすい作り。編者があとがきで書かれているように、釜ヶ崎のことを知らない人にとっても分かりやすく、それでいながら研究のクオリティを落とさない本として成立している。釜ヶ崎入門、また応用的に考えるならば、今後よりいっそう展開されるだろう労働場面、例えばにわかに日本でも入管難民法改正で外国人労働者を受け入れることが決まり、今度は新しく外国人労働者のことが想像の域内に入ってきた。この事態は単純労働者の受け入れ、という点で新たな「寄り場のない流動する下層の労働者」を作らないだろうか、実習生にとっての悪質ブローカーは釜ヶ崎の悪質手配師と等価なものといえないかなど、人々の流動性にまつわる課題などについても思念できる良質な本といえます。



●『無縁声声ー日本資本主義残酷史』(藤原書店)平井正治
 1927年(昭和2年)生まれで、1961年に日雇い労働者として釜ヶ崎へ定住され、港湾労働組合などで労働運動で活躍し、その後も釜ヶ崎に関する貴重な資料を収集し、かつ自分も執筆した釜ヶ崎での労働運動に関するビラ、あるいは釜ヶ崎の労働者が活発な時期の新聞資料など、学術的にも貴重な資料を残して「釜ヶ崎の生き字引」と呼ばれたかたによる語り起こしを中心にした本。前半は釜ヶ崎前史について知り得たことの語り(貴重な地理史として読める)、また平井さん個人史に関しては戸籍を持たずに生き、終戦直後の共産党に入党、松下電気に入社するも労働運動を起こすことでレッドパージを受けたりし、かつその共産党からも「反革命分子」としてリンチに遭遇するなど、前半生の身体を張った生き方が生々しく語られ、同時に社会や人間、釜ヶ崎から見た社会経済構造など観察眼を鋭利に持ち、肉体労働者でありながらのそのインテリジェンスには舌を巻く。第一次釜ヶ崎暴動の頃から日雇い港湾労働者として釜ヶ崎で働くが、その労働に関する観察、また日雇いにおける仲介者(手配師)、飯場親方、行政らの態度に対する毅然として忌憚のない一貫した姿勢は「ひとりの人間ここにあり」として特筆ものであると言っていいだろう。

 後半に平井さんを囲む対談が載っているが、聞き手が言うように「思想家で、釜ヶ崎の住人で、港湾の日雇い労働者というのを超えた、まだ何かがある」「あえていえば、革命家。政府を転覆する意味ではなくて、世の中で誰も見ていないものを見ている。そのものの考え方とか、意識とかが非常に革命的だ」という表現がぴったりとする。この平井さんの船内労働の具体的な内容や、大阪万博時の状況、暴動をも利用する労働運動の活動などについて仔細に、情感を持って語られる。この語りから大阪の経済復興、高度成長、長期不況までがリアルに見えてくる、単なる個人史には到底できない日本の現場労働史でもある。いまの廃刊状態がなんとも惜しまれる。ぜひ復刊を望みたい。



●『叫びの都市』(洛北出版)原口剛
 昨年9月にインタビューさせていただいた原口剛さんの渾身の著。序章と終章において専門である空間人文地理学の知見を背景に釜ヶ崎労働運動史、暴動史だけに終わらない釜ヶ崎という場所の「空間と世界」への一元的思考を複眼的なものへ転換する。その上で第1章から第5章で釜ヶ崎という場所に寄せ集まり、寄り集まった大量の単身男性労働者のうごめきを幾人かの活動家の実践を埋め込みながら、主に1970年代までを中心に釜ヶ崎という空間での語りの依り代となって、日雇い労働者の側に徹底的に立つ。彼らの肉体を利用する手配師や飯場の親方、また彼らを軽視し時に敵対する警察、矛盾を無視し大阪万博のために大量に肉体労働者を一箇所に集めた行政。それらと労働者の生存が抑圧されて沸点に達するとき、労働者たちは対峙し暴動が何度も勃発した。そして今では労働者は高齢化し、同時に現役の非正規労働者は携帯で労働センターという労働市場により集まらず、ネットで日雇いに従事する。つまり対抗の集団が形成されなくなってきた。
 また、釜ヶ崎の労働センターも今では改築が迫られ、スラムクリアランスのジェントリフィケーションの対象になろうと画策もされつつある。土地が浄化されてしまうとその土地で起きていたダイナミズムは忘却される。著者が言うように、「この本は反時代的な本である」。記憶を忘れてはならない、ということを主眼としている。
 写真を含め全編に渡る緊張感は、釜ヶ崎といういわばミクロな空間の歴史を主に丹念にたどりながら、先述したように序章と終章でマクロな問題と今後の流動的労働者の問題意識へ開かれる。

 この本において、先述したように今後想像される外国人の単純労働者受け入れによって釜ヶ崎のある意味厳しい歴史が反復されないだろうか。平井正治さんがいうように、先を見据えた単身者住宅、労働者住宅を真剣に考えないと矛盾が前衛化するのではないか。そんなことも考えさせられる。






●『現代社会用語集』(新評論)入江公康
 「はじめに」に書かれているように、社会を知るためにはまずはあたりまえを疑うこと。そのためには社会の「外部」を感じるためのとっかかりが必要だという考えのもとに社会学の用語が解説されている。普通の社会学用語辞典と同様なもの(「家族」など)から「肉」など、筆者の思念を軸にしている用語もあり、言葉や人物、映画とテーマ分けしているけれども、選択は割と恣意的になっている。ふつうの用語辞典が持っている客観性を標榜するために言葉に宿るエモーションが濾過されてしまうことがなく、著者の思いが率直に露見しているのが読みどころ。その情念があるゆえに読んで面白く、面白いがゆえにためになる。また、ひとつの用語に字数を多く割いてはいても簡明さは失われておらず、そのあたりもさすが。
 個人的に深くうなづいたのは「新自由主義」の項目。“新自由主義の世界観を検討すると、そこには歴史も時間の奥行きも空間の複数性もない。そのつどそのつど、のっぺりとした空間で、目先だけの行動のみを正当化する考え方が中心にある。目の前にあるものだけが真実。ほかのことは見ない。ダメなら入れ替えればいいというイージーな世界認識だ”
ー同感である。そしてそれは自分自身も捕まってしまっている蜘蛛の巣でもある。
 
 現代の混沌とした社会をただ混沌としたものとして受け止めるのではなく、構造的に理解する手引きとして有効な本で、この本を手元に社会系の本を読むのにも役立つかと思う。



●『NO FUTUERーイタリア・アウトノミア運動史』(洛北出版)フランコ・ベラルディ(ビフォ)
 1970年代中期に始まり、1977年3月に高揚し、9月に活動家が弾圧されたイタリア・アウトノミア運動の活動家による当時を振り返りその運動を解釈した本。数多くの当時のイラストやコラージュなども掲載され、視覚的にも非常に刺激的。
 初版は1987年に、次の版は1997年、また日本版の序文と3つの考察的な長文の序文が最初に掲載されている。
 アウトノミア運動は自由ラジオ、スクォッテング(空き家占拠)、反労働、家事労働に賃金を、と多産的な運動だった。今からみるとどれも無茶なゲリラ行為に見えるが、当時自由ラジオを運営していたフランコ・ベラルディ(以下、ビフォ)によると、それは南部から来た若者たちの北部自動車工場でのサボタージュであり、その意味するところは元々の南部人気質によるものや、文化受容の変容が生まれてきていたこと、また労働の現場に関していえば、工場のオートメーション化、機械化による労働時間減退の必要があったのだという。
 また、労働運動活動家の学生や若者たちにとって重要なのは77年が20世紀最後の共産主義運動と理解できると同時に、最初のポスト工業化時代の運動のかたちであり、ポスト共産主義運動であったということであった。しかし当時はまだ階級闘争の革命運動の思想や理念があった。若者たちの要求は「生の質」や、実存を現実化する欲望、工場労働への奉仕という制約から時間と身体を解放したいという意思であって、その意識の違い、矛盾は断ち切ることができず、運動を持続しきれなかったのだと。
また、運動家も当時の過激左派の犯罪にまぜこませて逮捕が相次いだのも大きかったと。
 ビフォは弾圧を恐れフランスに半ば亡命、精神分析学者で哲学者のガタリに匿われたり、その後はアメリカに渡ってサイバーパンク、コンピュータのオープンアクセスに活路を見出そうとするなど、鋭敏な感性でさまざまな方向に向かう。活動の多くは市民同士の自由なコミュニケーションツールを求めることであったが、それらはほぼ資本主義の営利追求に呑み込まれたという意味で彼の夢は砕かれ続けてきたといえるだろうが、それだけに鋭敏に現代の感情労働や認知労働による労働者の能力収奪を鋭く見抜いて問題視している人物だと読める。
 
 90年代終わりには「無垢」というかたちでの収奪からの離脱を説く(『無垢は反抗すると同時に反発をやめる。無垢は凋落が避けられないことを自覚しているが、倫理的にそれに巻き込まれる』)。
 無垢による離脱を考えたビフォは2008年に日本の読者のために「世界じゅうのひきこもりたちよ、団結せよ」というわかりやすい論文も寄稿しており、ひきこもりは無垢のかたちであるとして本書にも掲載されている。カルチャーの側からモノを見ている人のようであるので、表現に誤解を招く点もあるかもしれないが、その鋭敏な感性は刺激的であるがゆえに頭の柔軟体操としてこの本に出会えてよかったと思うし、社会のべつなかたちを想像し、べつなかたちに関心がある人に薦めたいものだ。

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