2012年9月20日木曜日

映画「SWEET SIXTEEN」などなど。


 
一貫して英国の社会問題を背景にした社会派監督の名匠、ケン・ローチ監督の02年作品、「SWEET SIXTEEN」をレンタルで観ました。

 感想はひと言、「切ない」。もうこの言葉しか浮かばないほど切ない映画です。ケン・ローチは好きな監督なので、それほどの映画ファンでない自分でも結構この監督の作品は観ている筈です。特にベテランになったこの10年以上の間はノリにノっている人なので、どれも見逃せないです。ただ、かの人の作品におけるベースは報われない確固たる岩盤、”階級社会英国”で一貫して労働者階級の立ち位置から作品を紡いでいる人であること、また、作品自体が非常なリアリズムなので、映画にわかり易い救いが用意されていないといったことがあるので、社会背景とかがわからないと楽しめないかもしれません(かくいう自分も英国に行ったこともないので、偉そうなことは言えないのですが)。

 
 スコットランド田舎町?に住むストリート未成年リアム。作品は冒頭天体望遠鏡で子供たちからお金を巻き上げて星をみせてやる風景から始まりますが、かのようにリアムという15歳の少年は家庭が極めて複雑です。母親はおそらく麻薬密売に手を出して刑務所に入所中。母の父親と、母の恋人は二人とも完全にドロップアウトしている大人。何と母への面会に少年リアムを使って麻薬を刑務所内で密売させようとする、そんな工作を考える大人たちです。
 ゆえにリアムには帰る家がなく、同じ養護施設に入っていた真面目な姉の家に転がり込んだり、行動規範が崩壊しているような親友、ピンボールのところに転がり込んだり。
 リアムは学校に全然行かない少年ですが、ストリートの知恵というか、機転と勇気を持ち、母のためにモービルハウスを購入しようとして頑張ります。彼の素顔はとても家族思いで、母親に対する愛情が人並み以上に強く、普通の大人以上に母を救ってやりたいと考えます。

 しかし、ニュー・アンダー・クラスというか、何のまともな大人の手立てがない場所で彼が考えることと言えば、結局のところ、麻薬を大量に密売してそのお金で家を買ってやるという乱暴な考え。逆に言えば、そういう短絡的な思考しか持てません。能力がないのではなく、彼に必要な社会的な手立てを持てないでいるのです。

 考えてみれば、この映画では彼、あるいは彼とその友達たちをサポートする大人は全然出てきません。出てくるのは社会の裏の世界で生きる大人たちや、麻薬を買う人間や、すぐ暴力でカタをつけようとする大人たちばかりです。能力も、思いやりもある彼が、なぜ教育の世界から遠く隔たっているのかの理由は、周囲の大人たちがどのようなものかで透けて見えてきます。

 この映画のラストもケン・ローチらしく(?)、救いのないものです。ただ、余韻が残るのは主人公リアムのハードなライフスタイルの中でも、彼自身が失わない信義則や、家族に対する愛情が本物であるという事実でしょう。それだけに「切ない」のです。

 この映画に関しては、ブログなどを当たれば素晴らしい批評に数多く出会うはずです。ただその中で友人、ピンボールの切なさにも言及されていると、なお良いなあと思います。親友・ピンボールもリアムが彼を強く求めているように、ピンボールも彼を強く求めているのです。
 リアムが悪い大人たちによって立派なワルに育て上げられそうになる過程で捨てられる。そのことが心細くて心細くて、リアムが求めた家に火をつけ、彼の前で麻薬で酩酊しながら自傷行為に走る。
 そう、タフなワルなフリをしても、まだ彼らは16歳になるかならないかの普通の「少年」であるわけです。

 僕は何年か前にこの映画を初めて見たとき、ケン・ローチの名を世に広めた60年代の名画「ケス」と比べて、同世代の余りもの環境への置かれ方の違いに愕然としたものでした。

 もちろん、同世代を主人公にした「ケス」も普通の意味で大変な環境に置かれる少年の話でした。その作品は英国北部の小さな田舎の炭鉱町で閉塞するような環境の中、母子家庭の母親もダメ、かつ暴力的な兄の支配、閉ざされた炭鉱町の労働者たちの窒息など、少年が置かれたシンドイ環境は同じでした。ただ60年代の「ケス」には、小さな希望として、主人公ケスの野生の鷹の飼育という生きがい(それは少年の土地からの飛翔を暗喩しているのかもしれません)、そしてそれを認めた先生が鷹の飼育についてクラスで彼に発表させ、彼に人としての尊厳と役割を与えた点が救いとして残されていました。

 しかし、今作では学校もなく、彼を育てる責任を持つ大人もいません。もはや彼らは彼ら同士だけで何とか必死に生きているのです。彼らがバイトしているピザ・ショップでさえ、大人らしき人は見かけない。そしてドラッグ(麻薬)がすぐそばにある。日常のそばにある。

 ですから、初めて本作品を観た数年前には、ケン・ローチの作品といえども(彼の作品はドキュメント・ドラマ、略してドキュ・ドラマという呼び方がされます)、これは余りにも現実的では無いのではないかと思いましたし、同時に新自由主義以降の「社会などない。あるのは男と女と家族だけ」のサッチャイズムへの極端な批判、「これがあなたが作った結果だ」というメッセージ性だと思っていたのです。

 ですが、前にも記事にした高岡健さんのインタビュー本「ひきこもりを恐れず」で述べられているとおり、英国の新自由主義は新しい新中間層を作ると同時に、労働者階級を分化させ、「ニュー・アンダー・クラス」(新下層階級)を出現させたというのです。その中では10代の妊娠、母子家庭、貧困その他で10代後半に進むにつれ、ヘビーな環境の青少年たちがストリート・ピープルとなったり、学校においては校長先生が血だるまで倒れている、そんな学校に警察官が張り付いている。それくらいのバイオレンスな状況があるらしく、かの国の一番の課題は青少年の「非行と犯罪」だというのです。学校で麻薬の取引が行われているというのですから。。。

 その点、日本にはまだ全然社会的な秩序と余裕があるというのが高岡氏の主張です。

 その意味で、この作品「SWEET SIXTEEN」もケン・ローチのドキュ・ドラマの観点は変わっていないということなんだ、と再認識し、今回改めて見返した次第です。

 もう一つ持っているブログで紹介した「この自由な世界で」も、ポーランド移民労働者の話が出てきますが、5年ほど前のビックイシュー・バックナンバーでも英国に向かったポーランド出稼ぎ労働者の苦境が紹介されていて、基本的にドキュメンタリースタイルのケン・ローチのアプローチは変わっていないと思います。

 
 先ほどの高岡健さんの本の話に戻ると、社会の工業化からいち早くサービス産業化に移行した英国ではこのように労働者階級にしわ寄せが移行し、ブレアによる荒廃した学校の教育改革もむなしく、ニュー・アンダークラスを生み出し、安定した社会環境を持たない白人の若者たち、そして主に南アジアからの移民の不遇な環境に置かれた人たちが不満層として堆積し、今年盛り上がったロンドンオリンピックの前にロンドンから各地に派生した暴動という形で噴出したと言えるでしょう。

 高岡氏によると、犯罪・非行という反社会・非社会的な問題は英国で深刻ですが、日本でのひきこもりやニート(英国のニートとは質が全然違います)と数字的にはおおむね対応するそうです。

 高岡氏は経済的な蓄積や余力を持つ日本は自分と向き合う時間を持つ形態であるひきこもりが出来る日本という国はよほど上等であるという評価をしていますが、今後懸念されるとすれば、家庭が子どもを育てる経済的な余力を持てない、持たない状況が日本に普通にあるという光景です。そうなっては絶対にいけない。しかしすでに日本の少子化や晩婚化、非婚化はある意味でそういう直感や本能、あるいは実態的に経済的に家族を持てないかたちとして出ているのかもしれない。
 ただ、早々と家を出され、社会のケアを受けられないまま同じような仲間とサバイバル的に生き、子どもを産んで、父親がいないような状況が生まれやすい社会でないこと。これは唯一の救いでしょう。

 話を映画に戻しましょう。「SWEET SIXTEEN」。何とも皮肉が聞いたタイトルですが、主人公のリアム少年が時代や社会の波や構造に翻弄されながらも、人間の原形質を必死に守りながら、傷ついていく。そこにやはり希望のなさと同時に、ある種の人としての感動があります。だからこそ感想の全ては「切なかった」というところに行き着きます。明るくはないけれど、心に深く残る映画です。
 主人公役の少年がDVDのボーナスインタビューでこのような趣旨のことを語っています。
 「リアムのような子に共感できる。この国は教育に力を入れてほしい。彼のような子が報われるために」。
 おそらく、監督のメッセージもそこに尽きるところがあるでしょう。

 機会と場所と、人と人とが相互に依存しあえること。人間関係に分断線を引くシステムを考え直すこと。そんなことを深く思わざるを得ない。そういうことを考える契機にもなる映画だといえるでしょう。

PS.
 映画の舞台となったスコットランドはグラスゴーの02年の社会的現実に関心のある方はこちらのサイトを参照してみてください。10年経った現在のグラスゴーはどうなのでしょうか?もしも詳しい方がいれば教えていただきたいところです。

1 件のコメント:

  1. スコットランドの英語に触れたくてこの映画を観ました。

    > 僕は何年か前にこの映画を初めて見たとき、ケン・ローチの名を世に広めた60年代の名画「ケス」と比べて、同世代の余りもの環境への置かれ方の違いに愕然としたものでした。

    「ケス」で描かれた事態との比較、とても興味深く思いました。あの映画では確かに主人公のビリーに寄り添う大人がいましたが、リアムにはいなかったですね。その代わりに姉の存在が唯一の救いではありましたが。

    素晴らしい作品との出会いに感謝です。

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